Memories

箕面市・豊中市・池田市・吹田市・茨木市彩都・北摂の西尾フルート教室

<第1回 パリへ出発>
私がフランス留学のため出発したのは、ちょうど今の様に蒸し暑い8月の初旬でした。憧れの地へ向かう期待の大きさと、同じくらい大きな不安を抱え、家族に見送られて飛行機に乗り込みました。
飛行機の中で、出発前に姉から手渡されていた1通の封筒を開けると、そこには当時まだ9歳と10歳の姪っこ達からの励ましの手紙と、兄と姉二人から「困った時に使うように」と日本円で1万円が入っていました。

思わず人目をはばからずクシャクシャになって泣いてしまいました。そして長い飛行時間、色々な気持ちと戦いました。

シャルルドゴール空港に着いたのはもう夕方だったと思います。恐る恐るタクシーに乗り込みホテルに向かいました。ラテン系の明るいおじさんでしたが、正直生きた心地はしませんでしたけどね。

翌日からは私のパリ観光三昧が始まりました!この後1ヶ月くらいの間に何度もくじけそうになるとも知らずに……
 

 

 

<第2回 パリで家探し>

 

エコールノルマルの授業が始まるのは10月中旬で、8月に渡仏した私はまず語学学校に通っていました。場所はシャンゼリゼ通りのすぐそば。最初の2週間くらいは毎日、授業が終わればエッフェル塔、凱旋門、チュイルリー公園、ルーブル美術館…と観光に明け暮れました。幸せいっぱいでした。その頃はシテユニベルシテといって、学生寮が建ち並ぶ中のなぜかギリシャ寮に入っていましたが、そこは1ヶ月だけしか住めない契約。その間に留学中の住まいを探さなくてはなりません。
つたないフランス語で「私は留学生で、部屋を探している」と公衆電話から電話したり不動産屋を見付けては部屋を見せてもらいましたが、なかなか思うようにいかず…観光三昧の日々から一転、毎日泣きそうになりながら焦っているだけでした。ある日日本人の女性がもうすぐ留学を終えて帰国するため部屋が空くと紹介してもらい、家具も安く譲ってくれるというので、あっさりそこに決めました。
小さなキッチンとユニットバスも含めて8畳程しかない可愛いステュディオ。パリ13区のトルビアックという駅のすぐそば。ここに2年半くらい住むことにしたのです。
ここからが一番大変だったかも!
電話・電気・ガス・郵便局に口座の開設(支払いや留学費用を送金してもらうため)などなどの契約。もちろん誰も知り合いも無く一人で全部廻るんですが、正直何言ってるかサッパリ分からん!とにかくどこへ行ってもえらい並ばされて待たされるし。場所は自宅から近いのに、なんだか疲れきっていました。
その他滞在許可書をもらうために警察にあらゆる書類をまとめて申請しに行ったり、健康診断受けたり。
まだ慣れない最初に一番大事なことをまとめてしなければならなかったのです。なかなかの試練でしたが、家に帰るとその狭さが逆に落ち着きました。中庭から管理人さんちのちびっこの声。隣室のお兄さんの鼻歌。朝はお隣りのパン屋さんのいい香り。部屋は狭いけどとても気に入っていました。今も誰かが住んでいるんでしょうね~。

さて次回はエコールノルマルのことを書きましょう。

 

 

 

 

 

<第3回 フランス留学のきっかけ>

 

パリ・エコールノルマルに留学するきっかけになる出来事から。
最初は音大時代にクリスチャン・ラルデ先生の公開レッスンを受けることになり、デュティーユのソナチネを聞いて頂きました。私の演奏が終わるやいなやラルデ先生は
「君は何才ですか?」
と質問されたのです。
当時3回生で21歳でしたが、身長もギリ150cm程、かなり童顔な私は中学生に間違えられるくらいでしたから、聴講している友達や大学の先生方は苦笑。今も思い出すと苦笑…ですね。

その時通訳をされたのが安藤史子先生で、翌年またラルデ先生が来日された時、今度はプライベートレッスンがあるからと受講を勧めて頂いたのです。
レッスンが終わり、ラルデ先生の横に座らされ、先生から
「私のクラスに受け入れてあげるからパリに留学しないか」
とお誘い頂きました!

「信じられへ~ん?!」(あ、これ心の声ですよ)

で、急いで準備して渡仏。(かなりはしょりました)10月からレッスンが始まります。
ラルデ先生は学校には来られません。2週間に一度郊外に行く電車に乗って先生のご自宅まで通いました。閑静な住宅街で、少し離れただけでパリとは全然雰囲気が違いました。広いお庭があり、とても可愛いくて大きなお家。1階では奥様のジャメさんのハープのレッスン、フルートは2階でレッスンでした。

ラルデ先生は生徒一人ずつにレッスンノートを付けていらっしゃいました。レッスンした曲目、注意した内容、次回の課題など書いてらしたようです。そしてまだまだフランス語に不慣れな私に、とても丁寧にゆっくりと、分かり易い言葉に言い換えたりして進めて下さいました。何より先生のお宅で出迎えられたら、必ずといって良い程
「学校は順調か?生活に不便は無いか?食事に困ってない?何かあったらすぐ言いなさい」
と優しく接して頂きました。

私は本当に師匠に恵まれています。

 

 

<第4回 人種 日本人>

 

エコールノルマル音楽院は、個人レッスンだけやってる訳じゃありません。ソルフェージュや音楽史なんかの授業ももちろんあるんです。
ただ、私のように音大を卒業してから入った場合、音大の履修証明書があれば免除になりました。
一般大学や高校を卒業してきた人達はソルフェージュや音楽史の授業をフランス語で受けないといけないんですから、そりゃあ大変そうでしたよ。

私は入学の手続きをした時に、初見演奏と室内楽のクラスを受講するように勧められました。
室内楽を選択してピアノと組み、フルート曲をどっぷり練習している人もいましたが、私はチェロとピアノとのトリオをしたかったので、チェロの先生が教えるクラスを覗きに行きました。

今はどうか知りませんが、当時はどの授業も自分で先生に直談判!だったんです。

マンフレッド・スティルツという、ドイツから通って来られるチェリストの先生がレッスンされている部屋をコンコン、とノックして入りました。

先生の室内楽クラスの受講を希望していること、チェロの学生でフルートとのアンサンブルを引き受けてくれる人を紹介して欲しいこと、などお話しすると、たまたまその時レッスン中だった中国からの留学生にやってみてはどうか、と聞いて下さいました。

しかし、この後私は決して忘れることができない言葉を言われたのです。

「日本人とは絶対にアンサンブルしたくない!」

私はもちろん先生もア然…。あまりのショックに声も出ませんでした。
先生は、必ず誰か見つけてあげるから今日は帰りなさい、と言われ、私は黙って帰りました。

帰り道彼女の言葉がグルグルと頭を巡り、同じアジア人で情けないやら腹立たしいやら…
まさか、フランスでこんな目にあうとは。正直、フランス人からの人種差別的発言を受けたこともありましたよ。いろんな考えの人がいますからね。

でもほとんどの人達は優しさに溢れていました。こんな仕打ちも日本にいたら受けることもなく、日本人である自分、アイデンティティを考える良い機会になりました。

留学生としての試練だったんですかねぇ。



<ご自宅でのレッスン>


ラルデ先生は学校ではなく、パリ郊外にあるご自宅でレッスンされていました

ので、月に2回郊外に伸びる電車に乗って通っていました。

駅員もいないような寂しい駅でした。

先生のご自宅は大きなお庭があり、いつもきれいな花が咲いていました。


1階では奥様がハープのレッスン、私たちは2階でレッスンを受けていました。

私が到着するといつも

「生活や学校のことで何か困ったことはない?」

と必ず聞いて下さる優しい先生でした。偶然ですが私の父と同い年だったと

記憶しています。

私が初めてちゃんとバッハのソナタ全曲を習ったのはラルデ先生でした。

試験で必ずバッハのソナタが指定されるからです。

先生はバッハのこと、想像できるバッハの生活、子供達、そしてもちろん

曲の分析などを教えて下さいました。

ラルデ先生のバッハに対する愛情がとても感じられた気がしました。

だからでしょうか、私もそれまでは苦手意識があってなかなか取り組めなかった

のですが、その時からバッハの魅力にとりつかれ、演奏する時の気持ちの持ち方が

変わったように思います。


ラルデ先生は2012年11月に亡くなられました。

とてもショックでした。優しい笑顔しか浮かびません・・・

天国でもきっと優しいフルートの音を響かせていらっしゃることでしょう。